Wednesday : 2006.04.12
街ごと壊す 〜「新千里南町住宅」建替え〜
爆破テロではありません。私が幼少時に住んでいた団地が、11棟まとめて取り壊されてしまいました。私が3歳から小学3年生までを過ごした思い出の団地は、重機によって無残に解体され、そこには見たこともないような広大な更地が広がっていました。
「新千里南町住宅」。それは、昭和45年(1970年)、大阪で日本万国博覧会(EXPO'70、通称、大阪万博)が開催された年に、旧日本住宅公団により分譲された総戸数310戸、11棟からなる中層住宅。住所は「大阪府豊中市新千里南町(Googleローカル・MapFan)」。北大阪急行電鉄桃山台駅から徒歩5分。千里ニュータウンの一角です。
団塊の世代を中心にした核家族世帯が集中して入居し、第二次ベビーブームの子ども達が暮らしたこの街には、たくさんの子どもがいました。(一軒一軒こそ狭いものの)今日では考えられないほどの容積率に余裕のある設計がされていたこの団地は、棟と棟の間にとても広いスペース(空き地)があり、そこでは低学年も高学年も一緒になって毎日野球をしました。自転車置き場の屋根の上から飛び降りたりもしました。つばき公園に凧揚げにも行きました。私たちはみんな“団地の子”でした。
私が数年ぶりにここを訪れた日、かつての風景はここにはなく、11棟あった団地のうち、一番北の端に位置する「C1棟」がかろうじて壁一枚で立つ無残な姿を残すのみ。そしてニュータウンに突如現れる、異常な広さの更地。広さにして2.7ヘクタール。2.7ヘクタールというと、東京ドームのグランド2個分の広さ。大規模建替えが多い千里ニュータウンの中でも最大規模で、一度に行われる建替えとしては、全国で最大だそうです。
36年前に植えられた桜並木は、立派過ぎるほどに成長し、ちょうど満開でした。
引越しをし、この地を離れてもう20年以上建つというのに、どうしても忘れられない、いや、幼少の記憶といえば、決まってこの団地を思い出します。弟と2段ベッドで寝た狭い部屋、水から沸かすバランス釜、これまた狭いダイニングには(さらに部屋を狭くするだけの)大きなステレオと(白黒テレビにかわって)13インチの赤いテレビがありました。玄関にはリス、ベランダには文鳥を飼っていました。
今でこそ千里ニュータウンは開発され尽くした感がありますが、当時はまだいたるところに森や林が残っていて、自転車に乗ってどこへでも探検に行きました。一度、カマキリの卵を持って帰ってきて、カゴに入れてベランダに置いておくと、ある日1センチにも満たない子カマキリが恐ろしいほど大量発生して驚いたことを思い出します。
左が在りし日の「新千里南町住宅」5階建ての団地です。当然エレベーターなどありません。私が住んでいた頃は、灰色のコンクリートのかたまりでしたが、後に綺麗に塗りなおされました。そして右がこれから建設される15階建て高層マンションの完成予想図。セキュリティー性の高い、高気密な近代マンションになることは間違いないでしょう。
同潤会アパートとは違い、歴史的にも文化的にも価値のないただの古い団地ですから、約半世紀近くも経てば、壊される日が来るのも仕方のないことなのでしょう。建物の老朽化は言うに及ばず、住民の高齢化による活力低下など、さまざまな問題に直面していたことも想像に難くありません。
しかし、「リノベーション」や「コンバージョン」といった、古い建物に新しい“住”の価値観を見出す文化が一部で見直される昨今、それでも跡形もなく壊すことしか方法がなかったのでしょうか。私たちが暮らし、そして愛した団地が姿を消し、イマドキのトレンドマンションに姿を変えるのかと思うと、一抹の悲しさを覚えます。本当の豊かさって、何なんでしょうね。
「いつか子どもが巣立ってまた2人きりになったら、団地に住もう。」と、妻と私はいつも話をしています。古い団地の持つ独特の雰囲気は、とても素敵です。少々気が早いですが、既に目をつけている団地もあります(笑)。
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おまけ
各種単位の変換(換算)を行うソフト。様々な単位が登録されているが、面白いのが、「面積」では東京ドーム、大阪ドーム、ナゴヤドーム、甲子園球場、大阪城公園、琵琶湖、日本、「長さ」では、東京タワー、通天閣、エッフェル塔、新幹線などが登録されていて、面積や高さを「東京ドーム○個分の広さ」「東京タワーを○本重ねた高さ」のように変換できる。